現実を疑う事から始めてみませんか?
私たちの体とは?
私たちの体は、37兆個もの細胞で構成されていると言われています。
その細胞は、たんぱく質から、たんぱく質は分子から、そして分子は原子からできています。
つまり、私たちの体は原子から構成されていることになります。
原子は原子核(陽子、中性子)と電子から構成されていることは、皆さんもご存じのはず。
原子全体の大きさを東京ドームと例えると、原子核の大きさはゴルフボール一個ぐらいの大きさだと言われています。
あまりの小ささに驚きですよね。
その他の空間は、電子が自由に存在できる場所となります。
電子は原子核に比べ非常に小さいと言われています。(サイズを持たないとも考えられています。仮にサイズを持つとすると原子核の一万分の一以下と言われています)
量子力学的に考えると、この小さい電子はその空間に常に個体として存在するのではなく、確率として存在していることになります。
個体としての小さい電子が常に存在して陽子の周りをぐるぐる回っているのではなく、確率として存在場所が示され、観測をされると、ある一定の場所に存在すると考えられています(コペンハーゲン解釈)。
要するに、原子の大きさを東京ドーム一個分と考えると、
原子とはそこにぎっしりと個体が詰まっているのではなく、ゴルフボール1個程度が存在するのみで、体積のほとんどが空間という事になります。
原子は限りなく空間
原子というものは、ほぼ空っぽの状態が現実のようです。
ほぼ空っぽの原子が分子を作り、細胞を作り、私たちの体を作っているのです。
「原子はほぼ空間」と言いましたが、それは個体としての物質が密に存在するのではないという意味においての事です。実際、その空間には個体はほぼないのですがエネルギー(波)が存在しています。
原子からなる私たちも、やはりほとんどが空間(エネルギー/波)と言えるでしょう。

しかし、私たちはこのほぼ空っぽな集まりの塊を「個体」として認識しています。
なんとも不思議な状況ですよね‥‥。
物質は波と粒子の両面を持ちエネルギーとしての性質も併せ持つ存在
「目に見えないものは存在しない」と言い続けてきた科学が、この世に存在する物質をほぼ空っぽだと決定づけました。
最先端の量子力学が、物質は局在する個体ではなく「波と粒子の両面を持ち、エネルギーとしての性質も併せ持つ存在」と証明したのです。

しかし、この結果を受けても、なぜか私たちは「物質は個体として存在する」と認識することを疑いません。「触れる事ができるから個体」という概念からでしょうか?
しかし、「触れる事が出来ている」という現象も実は触れているのではないのです。電子が反発しあう力を感じる事で「触れている」と感じているだけなのです。
私たちの脳が、反発する力の情報を「物質の存在」として認識しているだけだと考えられています。
思考が生み出す世界
すべては脳が「この世界は局在する物質にあふれた現実世界だ」と認識させているのです。
私たちが触っているパソコンも机も、手に持つコーヒーカップも、果ては私の体までもが、個体ではなくエネルギーであり波である存在。局在する物質ではないのです。
にわかには信じがたいけれども、それが本当の現実のようです。

量子力学的には物質とはエネルギーのかたまりなのですが、脳(思考)がこの波動を「個体」として認識させているのです。つまり、私たちの脳は一貫性のある物理的世界を構築するフィルターを持っていると考えられます。
そのフィルターを通して、私たちは物理的にまとまった形を持つものを安定した存在とみなし、日常生活に適応できるようになっているのです。
すべては脳が「これは個体である」と認識することによって生み出されている現象なのです。私たちが「これは現実」と認識する世界は、脳の認識が作り出した「一貫性のある物理世界」なのかもしれません。
実在するとは何なのか?
目に見えるものだけを信じる傾向のある人たちは、この事実を知ってもまだ、目に見える世界だけが真実と主張し続けるのでしょうか?しかし今、目に見えないものを非科学的と切り捨てることができない時代が、静かに訪れつつあります。
私たちの世界は、脳の認識によって具現化されている可能性が高いにもかかわらず、「この世界が現実である」という常識は、本当に常識なのでしょうか。
「個体ではない」ものを「個体である」と認識させるこの世界。
それはまるで巧妙なトリック。催眠術にかけられているようなこの世界。
それでも、私たちはこの世界に価値を見出し、意味を与え、現実として生きています。
だからこそ、問い直したいのです。 「常識」とは何か。 「現実」とは何か。 そして「存在」とは何なのか。
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